カット割りの基本ルール その2
映画は総合芸術だ、なんてなことを言う方もいます。絵画的要素・音楽的要素・演劇的要素・文学的要素、現場までさかのぼっていけば建築的要素や彫刻的要素も映画の中に含んでいくことが出来ます。ですので、映画は100年くらいの歴史だとしてもそれら他の芸術が培ってきたノウハウ・技法を映像に落とし込めて利用していくことで映画は急激に発展し続けてきたとも言えるでしょう。
ただ、だからといってそれまでの全ての芸術の代わりとして表現の王様みたいに君臨するかというとそういう訳でもなさそうなのですが。それに関しては疑わしい。
それはそれとしてその1に引き続きカット割りについて。まずは話の流れにスムーズに乗る形で演劇から流用してきた慣習の話からしていきましょう。
上手は偉い?
演劇の中には「主に上手(かみて)の人物が下手(下手)の人物に行動を落としていく」という習わしがあります。上手とは客席から見て舞台の右側、下手は左側のことです。舞台を見に行ったことがある人ならばなんとはなしに分かるかもしれませんが、特に序盤などで登場人物が舞台内を歩き回りながらしゃべるようなシーンが出てくることがあると思います。そういった時に大声で誰かに詰め寄りながら話し続ける、という場合は基本的に上手から下手に向かって動きはじめていませんでしょうか? アクションは上から下へ落とす。これはベースとなる慣習です。
映画でも似たように、行動は画面右側から左側に向かって行わせていきます。アクティブな人物は上手に立ち、受け身側は下手に逃げます。もちろん「ベースとして」です。こういったルールを設けることで、観客が意識的にでも無意識的にでも法則性からドラマでの状況を読み取りやすいようになっていきます。
ただしこのルールが脅かされたのがスーパーマリオの登場だと個人的には思っています。スクロールアクションを実装したスーパーマリオは左から右に進んでいきます。これによりゲーム業界において、「左スタートで右が進行方向」という定型文が定着してしまいました。おそらくなのですが、その結果も含めて右が「行動者の起点」というよりも「上位存在である」という意味合いを与えられることが前よりも多くなっていったのではないかと思っています。マリオ登場以前からも、例えば『甘い生活』なんかを観てみると映画界では「上手に配置されたものはシーンのテーマ的に重要なもの」という解釈も進んでいたように見受けられたので、上手く合流し加速した形なのかもしれません。
また、この上手優位の法則は日本漫画の視線誘導の発展とも絡んできます。日本の漫画の文字は縦書きで左進みですのでページめくりは左に進んでいくのですが、例えば「吹き出しの文字→人物→吹き出しの文字」とコマに並べた時にどの方向を向いているのが流れるように見ていけるでしょうか? コマの最初から文字が始まり左に進んでいきます。顔があってコマの左にも縦書きの文字。そうなると人物もコマの左側を向いていた方がスムーズだと思いませんでしょうか?
アメコミは右開きなのでどうなってるかは知りません。それは分かりませんが日本漫画の文法で育った私は、画面左の方を向いた右向きの画ばかりに慣れていますし上手優位の法則のようなものはなんとはなしに染みついていました。ルールとまで言っていいのかどうかはアレですが、こういった法則は、あります。
早めに状況説明を入れる
そのシーンはどんな場所なのか? 国は? 時間は? それらが分かるようなカットはシーンのはじめの方に入れておきます。これは前回のその1の記事で書いた「一度寄ると引きにくい」とセットで考えてもらってもいいかも知れません。基本は、あくまで基本はということですが、基本としては画角はどんどん寄っていくことになります。状況説明のドン引きがあって次に人物。感情の昂ぶりに合わせてアップへ。
例外的にクローズアップからシーンを始めるという手法もありますが、基本は引きから寄っていくタイプになると思います。見た人が分かりやすく、ということを考えてコンテを切ると自然とそうなっていくはずです。
ジャストオンで音楽に乗せても基本的には遅い
これは、不思議な事なんですが。曲のリズムに乗せてオンで別カットにしていっても大抵は遅いんです。これは次のカットの画のサイズや画の中での動きによってジャストタイミングが変わってきます。エヴァンゲリオンのOPなんかみたいにコマ切れでカットを割っているものなんかを見ていると分かると思うんですが、静止画と動画で見ているこっち側の体感時間が少しだけ変わってくるんですよ。ですので、気持ちよく音楽にのってカットを割る、みたいなことをする時には感覚に頼るのが正解なんです。そう思います。で、調整して確認する際に前回観た時の気持ちに引きずられない方がいいかと思います。そのシーンに初めて出会った人が気持ちよく観られる、というのが模範的な正解です。
カットを割った必要性を感じない繋ぎにはしない
例えば登場人物の腰の下くらいのサイズのショットがあったとして、その次のカットは腰の上くらいのサイズだった場合。なぜその微妙な変化でカットを割ったのかと思ってしまいます。「セリフを間違えたのかな?」とすら思います。また、微妙に10度くらいだけ傾きが変わったりだとかした時も同じです。
なんで今カット割ったんだよ。となります。
いいカット割りはカットが割られたことにすら気付かないような自然なつなぎ、と以前に書きましたが、これはもうそういう事じゃない。逆に不自然極まります。気付く気付かない以前の問題として根本的にカットを割る場合は、割ったことが効果的であったと納得できるものの方がいいでしょう。ルールというよりは当たり前の事です。「どうしてもそうしなきゃつながらないんだ(素材的な意味で)」という場合には別のショットを挟んでください。
作り手側の都合を見ている人に押し付けない
撮影現場の都合は観ている人には関係ありません。ですので、こっちの都合でこうなっているというのは画の上では極力感じさせないように配慮するのは、もうルールというよりはマナーです。表現全般に言える事かもしれませんが、本心では「だってしょうがないじゃない」と思っていても画としてそれが出ないようにしたいものです。まぁ大抵は無理なんですけども。なので極力は、という話です。
などなど。今回は前回よりも表現的に突っ込んだものを集めてみました。このほかにも何か思いついたらまた書いていこうと思います。
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